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2日目は「十字架山」からスタートです。

長きに渡った禁教令が終わり、1881年浦上教会の主任司祭のプトー師を中心に浦上の信徒たちによって、
絵踏みをしてしまったことへの償い・為政者らの罪を神に許していただくため・迫害が終わったことへの
感謝と喜び、信仰の証を表すためとの理由で十字架山は建造されました。
浦上の信徒たちは、この地がキリストの処刑地ゴルゴダの丘に似ていることから十字架を建てました。
大十字架の台石は4尺角(約120p)もあり、60人の男らの力によって7日間もかけて頂上まで運ばれました。

1950年にはローマ教皇ピオ12世によって公式巡礼地に指定されました。

入れるところまでは車で来たのですが、さすが長崎!
道幅がめちゃくちゃ狭くてビックリです。(゚ロ゚;)
下にずーっと階段が続いているので、歩いてくる場合
は、ここをのぼってくるようですね。

 

 

市内を少し離れて、外海地区に行ってみることにします。

外海地区は長崎市街から車で約60分です。

キリスト教が禁止されていた時代、多くの潜伏キリシタンが
外海地区で暮らしていたといわれています。
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は2018年7月に
世界文化遺産に登録されました。

今回ご紹介した「大野教会堂/出津教会堂」は教会行事により
見学できない場合や多くの見学者を受け入れられない場合もある
ため、見学を希望される際は事前に連絡をお願いしているとの
ことです。

※詳しくはこちらからご確認ください ↓ ↓
■長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産インフォメーションセンター >>

 

 

まず最初に行ったのが「遠藤周作文学館」です。

ここ外海地区は遠藤周作の『沈黙』の舞台となった
場所です。

館内には遠藤周作の遺品や生原稿など貴重な資料が
展示されています。また、生前の書斎を再現した
コーナーもありました。


館内にあるショップでは遠藤周作の書籍や絵はがき
などが販売されています。

こちらの文学館が建っている場所、ロケーションが
抜群です!あともう少しお天気が良ければ、遠くの島
までクッキリ見えるそうですが・・・ 残念。

 

 

続いて向かったのが「大野教会堂」です。   ↑ 教会堂が見えてきました。

大野教会堂は、ド・ロ神父が私財を投じて信徒とともに1893年に建設し
た小規模な巡回教会です。
赤土に石灰を混ぜ合わせた泥漆喰(どろしっくい)を接着剤とし、現地の石を積み上げた外壁が特徴的です。
これはド・ロ神父が考案したことから「ド・ロ壁」と呼ばれています。

中には入れませんが、窓からのぞくと
内部が少し見えました。

 

 

← せっかくあったので、パンフレット
  に記念スタンプを押してみました。

 

 


こちらは「沈黙の碑」です。

遠藤周作の小説「沈黙」の文学碑で、

『人間がこんなに哀しいのに 主よ 海があまりに
 碧いのです』

と刻まれています。

角力灘を一望できるこの場所を遠藤周作本人も大変
気に入っていたそうです。

 

 

こちらの資料館では外海地区の歴史や文化などについて紹介されています。
1階では昔使われていた農機具や漁業の道具など、その当時の人々の暮らしぶりが分かるような展示があり、
2階にはキリスト教の歴史とともに、マリア観音やロザリオなど隠れキリシタンに関する資料も展示されて
いました。

 

 

こちらは「出津教会堂」です。出津(しつ)と読みます。
ド・ロ神父が設計し、信者とともに力を合わせて1882年に建てられた教会です。さきにご案内した大野教会堂
は、この出津教会堂の巡回教会です。白い外壁が青空に映えてとてもきれいです。
教会ってもっと高さがあるイメージだったのですが、こちらの建物はとても低いです。この辺りの立地条件と
して、強い海風にも耐えられるよう低く作られているんだそうです。

左)鐘楼の上にあるのは手を広げ
  たキリストの像です。

 

右)入り口上の塔にあるマリア像
  はド・ロ神父がフランスから取
  り寄せたものです。

入り口の反対側にまわってみると、ド・ロ神父とパウロ・中村近蔵の胸像が
ありました。

パウロ・中村近蔵さんとは、歴代神父の片腕となって教会運営や信徒の
宗教や教育などに尽力された方だそうです。

 

 


つづいて「ド・ロ神父記念館」に移動です。
フランス人宣教師マルク・マリー・ド・ロ神父は、外海の人々を困窮から
救うため、農業や医療などフランスで身につけたさまざまな技術を教え
ました。また私財を投げうって、それらに必要な施設を作ったりしまし
た。こちらは元々いわし網工場として建てられたものです。

館内にはド・ロ神父の遺品や、
神父が人々に教えた各事業に関す
る品々(用具や指導書)が展示され
ています。

 

← ド・ロ神父の銅像。

 

ド・ロ神父記念館を少し下るとあるのが「旧出津救助院」です。こちらもド・ロ神父が女性の自立支援のために
建設した授産施設で、のちに修道院となります。こちらでは織物やマカロニ・そうめん製造の技術を教え人々の
自立を手助けしました。製造されたマカロニは、当時長崎にいた外国人に売られていたそうです。
2階にド・ロ神父が購入したハルモニュウム(リードオルガンの一種)が展示してあるのですが、タイミングよく
シスターが弾いてくれるところに居合わせたので、しばし聴いていました。和音が美しいとてもきれいな音色
でした。

 

 

そろそろお昼ごはん・・・ということで
予約していた「いけす割烹 久栄」さんへ。

 

活きイカ定食にウニを単品でプラスしてみました。イカが大きい・・・昨日食べたのよりさらに大きい!
写真では伝わらないんですが、足動いてました。吸盤くっ付きました。ゲソはタクシー運転手さんおすすめの
塩焼きにしてもらったんですが、これ美味しい!昨日の天ぷらも美味しかったんですが、塩焼きはあっさりし
ていて、なおかつイカの旨味も存分に感じられてホント美味しぃ〜♪大満足でした。

★いけす割烹 久栄
【住所】長崎県長崎市下黒崎町1411-2  【TEL】0959-25-0052

 

本当はこのあと黒崎教会へ行く予定だったのですが、お昼ごはんにテンションあがり過ぎてしまい
すっかり忘れてしまいました。帰りの時間の都合もあり、戻ることもできず・・・ スミマセン。

 

 

ふたたび市内へ戻ってきました。気を取り直して平和公園へ。
こちらの平和記念像は塗装の補修工事中のため見ることはできませんでした。記念像の塗り替えは1999年に
行なわれた大規模な修復工事以来19年ぶりだそうです。※工事は2019年3月に終了しています。

 

 

こちらは如己堂(にょこどう)です。

2畳1間の小さな建物は、被爆により白血病が悪化した永井隆博士のため
に浦上の人々やカトリック信者たちの厚意によって建てられたものです。

如己堂とは、聖書の一節である「己の如く隣人を愛せよ」という意味から
名付けられました。

永井博士はこの如己堂で、2人の子供と暮らしながら多数の著書を執筆し
ました。

となりには博士の記念館があります。

 

 

緩やかな坂道をのぼっていくと
教会が見えてきました。

正式名称は「カトリック浦上教会」ですが、一般的には旧称である
「浦上天主堂」の方が知られていま
すね。

 

赤レンガ造りの浦上天主堂は
1925年に完成しました。

高さ25mの双塔にフランス製
のアンジェラスの鐘が備えら
れ、当時は東洋一の大聖堂と
言われていました。

しかし原爆投下によって、建
物は一瞬にして崩壊、アンジェラスの鐘も鐘楼とともに
崩れ落ちました。

1959年に鉄筋コンクリート
で再建されます。1980年に
外壁を赤レンガ造りで改装し
たことにより、完成当時の姿
が復元されました。

 

中に入ることができました。
窓はすべてステンドグラスに
なっており、とてもきれいで
した。


信徒発見150年を記念して建てられたレリーフです。

被爆した聖人の石像です。
原爆で首が吹き飛んでしまったり、熱線で黒く焼け焦げています。
この石像たちを見るだけでも原爆のむごさが伝わってきます。

 

天主堂の近くには、原爆の爆風で倒壊し近くの川まで転げ落ちた片方の鐘楼が、今も当時とほぼ同じ場所に
原爆遺跡として保存されています。原爆の凄まじさを感じました。

 


つづいて「山王神社」に向かいます。

こちらの二の鳥居は、一本足鳥居や片足鳥居などと
呼ばれているのですが、原爆の爆風で片方の柱がも
ぎ取られてしまっています。

 

← もぎ取られた柱が保存されています。

 

正面に見える大きなクスノキは、原爆によって被爆しました。
熱線で幹は焼かれ、爆風で枝も葉も吹き飛び枯れ木同然になったのですが、それでも朽ちることなく息を吹き
返し、人々に希望と勇気を与えたそうです。
長崎出身のアーティスト福山雅治さんがこの木をモデルに「クスノキ」という曲を作っています。
原爆の爆風によって舞い上がった小石が幹の空洞のなかに入っています。

 

「浦上街道」の碑です。

浦上街道は、キリシタン禁止令によって捕らえられた宣教師6名・
日本人信徒20名が処刑地の西坂に向かって歩いた道です。

 

これからその二十六聖人殉教地に行ってみます。

道の途中でにゃんこ
に遭遇。カメラを向
けたら目線をくれた
ので、せっかくだか
ら撮らせていただき
ました。

ありがとう。

長崎は「猫の街」だそうです。
なんでも長崎には尾曲がり猫(いわゆる『かぎしっぽ』のことですね)が多く、そのしっぽが幸せを引っかけて
くるから、幸運を運んでくる猫といわれているそうです。可愛らしいですよね♪

 

 

「日本二十六聖人殉教地(西坂公園)」です。

豊臣秀吉によるキリシタン禁止令によって、
1597年2月5日にフランシスコ会の宣教師6人と
日本人信徒20人が処刑されました。

彼らは後ろ手に縛られ、大阪から長崎まで徒歩で連行されます。そしてさきほど少し紹介した浦上街道を
通って、この西坂の丘(現在の西坂公園)に到着し処刑されました。
この26人の殉教はヨーロッパでも広く紹介され、1862年にローマ教皇によって全員が聖人の列に加えられ
ました。

26人のうち、24人が手を合わせて天を仰ぎ
見ている中で、聖パウロ三木と聖ペトロ・バ
ウチスタの2人だけは両手を広げて視線を
下に向けています。

2人は最期まで教えを説いていたといわれて
います。


二十六聖人のレリーフの裏側にあるのが「長崎への道」という作品。
日本二十六聖人記念館と聖フィリッポ教会を設計した今井兼次さん作です。二十六聖人が京都から長崎まで歩
いてきた道がごつごつとした石で構成されているところが、彼らの苦難の旅を表しているかのようでした。

 

レリーフの後ろに記念館の入り口があります。

せっかくなので行ってみます。

← 建物東側の壁にはモザイク壁画があります。
  壁一面に埋め込まれているのは陶器の破片です。

  京都から長崎までの道中にある窯元で作られた陶器や、
  スペインやメキシコから送られてきたタイルが使われて
  いるそうですよ。

金鍔次兵衛(きんつば じひょうえ)神父の銅像です。
忍者のように神出鬼没といわれ、幾度となく追っ手を逃れ各地を潜伏しながら宣教活動をしていました。
しかし長崎の片淵で捕らえられ、拷問のすえ1637年に西坂の丘で殉教しました。

この特徴的な建物は、記念館の向かいにある「聖フィリッポ西坂教会」です。
正式名称は「日本二十六聖人記念聖堂 聖フィリッポ教会」といって、二十六聖人の一人であるメキシコ人
フランシスコ会修道士聖フィリッポ・デ・ヘススに捧げられた教会です。
ガウディを日本に初めて紹介した今井兼次さんが設計し、日本二十六聖人記念館とともに1962年に造られ
ました。

 

 

今回は1日目の後半からタクシーで移動していました。

グラバー園の帰りに偶然乗ったタクシーで、結局2日目もお付き合いいただくことになりました。

詳しいお話がいろいろ聞けてとても勉強になりましたし、より興味を持つことができました。

お世話になったタクシーの運転手さん、本当にありがとうございました。